理解できなくても想像しようとする姿勢について

photo credit: spettacolopuro via photopin cc
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今日はちょっと愚痴っぽい話なんですけど、どうも最近人付き合いに関してうまく行っていないなと感じることがありまして、自分の考えを文章にまとめてみたくなりました。人は同じ立場や境遇を経験しないことには本当に相手のことを理解することはできない、でも理解までできなくても想像することが大切じゃないか。そんな話です。

目次

  1. 立ち位置
  2. 第三者
  3. 理解
  4. 想像
  5. 想像できる人に

1. 立ち位置

最初に自分の立ち位置を簡単に説明しますと、サラリーマンとして働きながら小学生と保育園児の2人の子どもを育てるシングルファザーという側面があります。また今年でようやく服薬と受診が終わったものの、メンタルの病気で仕事を休職したことがあり、現在は職場復帰して1年ちょっとという立場でもあります。

そういう事情なので職場では勤務形態に関して相当の配慮をいただき、また理解ある上司に恵まれ心理的に支えられていることもあって、どうにかこうにか毎日を過ごせています。

2. 第三者

人が不愉快な気分になる時というのは、往々にして第三者の何気ない、そして心ない言葉がきっかけだったりすると思います。自分にも最近そういう経験がありまして、家庭の事情や病気の経験を背景に勤務に制限を設けている現状について、とある人から「子どもを誰かに見てもらってもっと働けるようにしたら?そうしておかないと、自分が働きたいと思った時に十分に働けなくて困らない?」といった趣旨のアドバイス(?)をされました。

その人の真意がどうあれ、こちらにとっては正直、非常に不愉快な一言だったのです。子どもを誰かに見てもらうことが簡単にできないからこそ1人で育てているわけですし(それでも現に両親や離婚した妻から可能な範囲で協力を受けていますし、学童保育や保育園の延長保育のお世話にもなっています)、仕事に制限を設けざるを得ないことへの忸怩たる思いは、未来の話ではなく現在進行形で日々感じています。

他にも、病気の再発を避けるためには無理しすぎない、頑張りすぎないことが第一で、そこに力点を置かざるを得ないこと(実際には無理して日々の生活を回している面は当然あります)、それでも常に不安はつきまとっていること、などなど、こちらにはこちらでいろいろな思いや感情があるわけです。

3. 理解

もちろん、そうした個人的な事情や感情を周りの人が理解してくれるべきだなどとは微塵も思いません。私自身、周りにいる1人1人に自分の状況や考えを説明して回っているわけではありませんし、冒頭に書いたように、同じ立場や境遇にならない限りは理解できない面があるのも事実だと思うからです。理解してほしいと考えること自体がおこがましいことである、という思いもあります。

4. 想像

理解することとは別に、「想像する」ことが行動の一形態として存在します。想像することとは、言い換えれば、本当の意味での理解まではできないにしてもなるべく相手の立場や気持ちになって理解しようと努めること、になるでしょうか。「思いやる」という言葉に通じるものがあると感じます。

そういう意味では、これまで自分が何とかやってこられたのは、周りの人がありがたいほどに、「想像する」という行動を取ってきてくださったからだと思います。女性であれば育児や家事の大変さを身をもって経験されていますし、男性は男性で、育児や家事の経験がない人でも「男手1つって大変だよね」と言ってくれます。あまりにも周りの人に恵まれてきた結果、いつもと違うコースから唐突に投げられたボールに、自分がうまく反応できなかったのが今回の1件なのかな、とこの文章を書いているうちに思ってきました。

5. 想像できる人に

何かまとまりのない話で恐縮ですが、我が身を振り返ってみれば、この「想像する」ことができなかったために人を傷つけてしまった苦い経験が、数多くあります。想像することがおろそかになっていた以上、それこそ「理解する」ことからは程遠い状況になっていたはずです。想像することは、理解することへの第一歩。自分自身に、強く言い聞かせたいと思います。

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